わが町のあゆみ
笹野台いまむかし

9. 古い道・新しい道
 笹野台地区は、昔から東西南北へ通じる大事な三つの道に囲まれた地区といえます。厚木街道、中原街道、武相国境道で、いずれも尾根を通って隣の地区と接しています。それらの道についての昔と今を少し眺めてみましょう。

(1) 『厚木街道』(相州道、神奈川道)
 相鉄鉄道沿い『厚木街道』は笹野台といちばん縁が深い感じの道です。この道は古くは『神奈川道』と呼ばれ、厚木・瀬谷方面から保土ヶ谷や神奈川方面に向かう大切な道でした。この辺りで『神奈川道』と呼んでいましたが、横浜方面からは『相州道』と呼ばれていました。今は『厚木街道』と言っています。
 今の相鉄沿いの道と古い道とは、この辺りではほとんど同じ場所を通っていますが、昔の道は、保土ヶ谷岩間町で東海道と別れて帷子川右岸を進み、仏向の杉山神社の前を通り、西谷・市沢・三反田・本宿を経て二俣川へと通じていました。二俣川で道は二つに分かれ、右側は登り坂で尾根道に出ると見晴らしがよい所です。この尾根は二俣川と今宿・二俣川と川井の村境で、これを進むと上り詰めた所で武相国境道と合流し今の三ツ境駅の上に出ます。この道は、昔のままの道筋なので『旧厚木街道(旧道)』と呼んでいる人もあります。左側の道は、ほぼ現在の相鉄線に沿っている平坦な道で、釣堀(東希望が丘214)を左に見てさかを上って尾根道に出て笹野台4丁目8番地先で右側の道と合流します。奉斎殿裏から野境道路の分岐点までの間は、神奈川道と武相国境道がひとつになっていて、昔のままの位置です。
 『厚木街道(相州道)』を西に向かうと、踏切を越え現在の瀬谷警察署前から二つ橋交差点に至ります。今は二つ橋の交差点からまっすぐに瀬谷方面へと続きますが、昔の道はここで右折して中原街道を越えて瀬谷駅の南側へと向かいました。
 あるお寺に瀬谷の橋戸の方から見た昔の村絵図が飾られていました。絵図に『三ツ境の大榎(えのき)』というものが描かれていました。昔瀬谷の方から来る旅人にとっては、この大木が道中のよい目印だったようです。東笹野台の旧道沿いのある旧家の屋敷には大きな欅(けやき)がありますが、絵図の大榎とあるのはこの大欅のことではないかと思われます。大榎か大欅かはともかく、この三ツ境の高所にある大木は、村のシンボルであり、道行く人の大事な目印になっていたのでしょう。

(2) 武相国境の道
 笹野台の西側は野境道路で瀬谷区に接しています。この道は昔の武蔵相模の国境です。今は川井の中原街道や厚木街道のような遠方に通じる幹線ではありませんが、武蔵と相模の国境を示す尾根道で、南北を結ぶ大切な道でした。
 奉斎殿の北口辺り、いわゆる三ツ境という地点で、武相国境道は神奈川道と合流しています。
 三ツ境から南に向かっては、陸橋の先で尾根道となり、阿久和を通り戸塚の境木の方に向かっています。この道は旧二俣川村と旧阿久和村の境界、今では旭区と瀬谷区の区境となっています。
 三ツ境から北に向かう道は、昭和30年頃中原街道と交差する所まで拡張され、その後保土ヶ谷カントリークラブの建設などを機に国道16号線(八王子街道)に至るまっすぐな道が森の中に開かれ、今は野境道路と呼ばれていますが、昔の国境道は聖マリアンナ病院の先で左に曲がり瀬谷市民の森の脇を通り上川井と上瀬谷の境へ向かっていました。森の中の道は往時を思い出させる感じがあります。
 今ではその跡も確かではありませんが、ゴルフ場の西側には、武蔵の府中から鎌倉へと通じる古い時代の鎌倉道がありました。境川の東岸の鎌倉道から上瀬谷で別れ、世谷の原(米軍上瀬谷通信隊のあたり)を通って国境道に至り、中原街道を横切って現在の楽老ハイツから瀬谷区役所の脇を通り阿久和、中田を経て鎌倉に至る道です。国境道のこの辺りは戦国時代(1467~1568)に小田原北条氏と関東管領上杉氏とがしきりに争った場所で、古戦場「美也古山」もこの道に沿った所だといいます。
 宝永4年の富士山大噴火の時には、この辺りは火山灰が20cmぐらい積もったそうです。農民はその火山灰をこの武相国境辺りに捨て、今でも米軍の基地のあたりにはその名残りがあるということです。

(3) 『中原街道』(丸子茅ヶ崎線)
 笹野台近辺の道で古くから知られているのは『中原街道』です。拡張されて直線的な大きな道路が新しい中原街道が『丸子茅ヶ崎線』として昭和63年に完成しましたが、かつては鬱蒼たる林の中の曲がりくねった起伏のある道でした。笹野台辺りでは、この道は昔の下川合字大野と字矢指の境で、林の中の道という景観は昭和40年頃まで残っていました。
 『中原街道』は小田原北条の時代(16世紀)にすでにあったようですが、それを徳川家康が修築したといいます。この道は江戸と相州中原(現平塚市中原)を結ぶ脇街道として重要な道でした。途中に多摩川、相模川という大きな河をはさみ、小杉・佐江戸・瀬谷・用田・中原と五つの駅と、中原御殿瀬谷御殿川井御殿小杉御殿という四つの御殿が設けられていました。
 家康は天正18年に江戸へ入りましたが、この年にすでにこの街道を利用したと伝えられています。その後、家康は駿府と江戸の間を往来する時には好んでこの道を利用したといいます。家康は鷹狩りをしばしば行いましたが、実際には軍事的な意味があったようです。
 中原街道は東海道より距離が短く、途中がほぼ直線的で山坂も少なく、急ぎの旅や目立つ旅行を嫌う場合、あるいは東海道の交通が参勤交代などで渋滞するような時などに利用されました。江戸が都市として発展すると、沿道の地域の産物を江戸に輸送する道として利用されました。江戸が発展するとともにこの街道沿いの村の開発が進みました。人馬物品の輸送作業などによって、沿道の農家は現金収入を得ることができるようになったそうです。
 この街道は中原街道という名前ですが、『相州街道』『御酢(おす)街道』『江戸間道』などども呼ばれました。家康は平塚中原の成瀬という人が作った食酢をお気に入りで、それを江戸上まで運ばせる時にこの道を通ったので『御酢街道』と呼ばれました。
 明治以降は、東京から富士へ軍事演習に行くのに、この道を利用したと聞いています。馬や車や銃を担いだ兵士も通ったのですが、道の状況はあまりよくなかったので苦労したことでしょう。

 昭和6年に横浜貿易新報社が主催した神奈川県下中等学校学生紀行リレーという行事があり、当時の横浜第三中学校(現緑が丘高校)の生徒が報告書に中原街道について次のように記しています。「二つ橋付近よりサイドカーに乗せていただき、川井の十字路に向けて進む。途中『乳出の泉』のあたりを通って、車は国境を過ぎ、杉木立ちのこんもりと茂っている中原街道を大スピードで疾駆する。驀進!又驀進!、所々道の悪い所があって肝を冷やしたが、運転手さんの鮮やかな手腕で無事に川井の十字路に来た。・・・」
 また、横浜の郷土史の研究家であった故内田四方蔵氏が、昭和36年に中原街道を瀬谷から川崎まで歩き、その手記に、当時のこの近辺の様子を次のように記しています。
「この境(相武国境線)に立って、東北を見比べると、武蔵はごつごつした山稜の起伏がつづき、相模側のなだらかさとたいへん対照的な感じがする。(中略)この国境はそのまま現在保土ヶ谷区と戸塚区(現旭区と瀬谷区)の境になっている。尾根道が戸塚の権太坂(ごんたざか)の地蔵堂の横から八王子まで続いている。楽老峰の東側では、広い道路(現野境道路)となって団地の通路として使われているが、中原街道と交差してからは、細い道が木立ちの中にはいっていく。」
「国境線を越えると、街道の左側はまだ山林のままになっているが、右側はすっかり整地され、住宅がぽつぽつ建っており、南方の丘稜に二俣川・鶴ヶ峰あたりの団地が見渡せる。ここから川井の原部落入口あたりまでは、この街道にしては珍しいほど道が幾曲がりに曲がっていて暫くは登り坂で、やがて下り道になって原部落に通じている。道の両側に畠と木立ちが継続し、御殿丸の丘を左に見ながら原部落へ入ると、三島神社あたりから農家が建ち並び、のどかに静まり返って、市内では珍しいほどの農村風景である・・・。」
 これらの文は、かつての中原街道の様子を表しいますが、昭和63年に新道ができるまでは、狭い道をかなりの車両が往来して、すれちがうのも大変だった時期もありました。直線的な新道が完成して、旧道は静かさを取り戻し、矢指市民の森の緑も残って、かつての街道筋を想像できる部分も残っています。新道の交通量の多さを見ると時代の移り変わりをあらためて感じさせられます。

(4) その他の道(金が谷道など)
 厚木街道沿いから下川井の中心である都岡の辻へ行くには、武相国境道から中原街道を通って尾根伝いに行くか、金が谷の谷合いの道を行くかです。今宿との境の尾根道を通っても矢指川の畔に出られたようです。金が谷道はかつては車一台がやっと通れるほどの道で、雨の後などのぬかるみは人泣かせでしたが、今では拡幅・舗装されてバスも通るようになりました。駅前から下る急坂は住宅地開発に伴って造られた道です。昭和30年頃までは二丁目の東斜面の中腹をなだらかに下る道でした。
 住宅地の開発に伴って新しい道路がいろいろと作られましたが、台地と谷の多いこの地域では、かなり無理して作ったと勾配の急な坂道が多く、高齢者にとってきびしいこともあります。冗談に「ここは笹野台ではなく『坂の台』だ」などという人があるほど坂の多い町です。
 昭和49年には国道16号線の保土ヶ谷バイパスが開通し、東名高速道路や横須賀方面への連絡も便利になりました。近くに下川井インターがあるので、笹野台方面からの自動車での交通は格段に便利になりました。地域内の他の道の交通量も増えて、野境道路や厚木街道の交通渋滞もときどき見受けられます。交通安全も地域の大事な問題となっています。

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