わが町のあゆみ
笹野台いまむかし

6.町の形が出来てくる つづき

(2) 自治会の発足
 この土地の古老だった廣島敏雄氏の話によると今の笹野台の地域の住民はかっては16軒でしたが、戦時中疎開などしてきた人で昭和20年の終戦当時は43世帯となっていました。その後ぼつぼつ住宅が増えましたが、やはり人家もまばらでした。川井の地区では、昭和29年に上川井・川井・下川井の3自治会が発足していて、この地区は下川井自治会に属していましたが、自治会の会合は三島神社で行っていたということです。

① 境友自治会結成される
 昭和31年に新しい住宅が増えてきたので、当時の栗原清治市会議員の勧めもあって、この地域に新しい自治会を作ろうという話が持ち上がりました。新しい住民の常盤豊次郎氏と以前からの住民であっる廣島敏雄氏や鈴木正敏氏などが話し合いを持って、『境友自治会』を結成したのが自治会の始まりです。
 自治会が発足したのは昭和32年8月4日でした。初代会長は常盤豊次郎氏、自治会の範囲は下川井町大野、天野、笹山つまり現在の笹野台全域でした。
 自治会の名称は三ツ境の駅に近いので『三ツ境自治会』としたかったのですが、すでに駅の南側に三ツ境の名を付けた自治会ができていたので、三ツ境に住む仲間という気持ちをこめて『境友』という名に決めたそうです。当時はまだ笹野台という地名はなかったし、この地域と三ツ境に関わりを表したものです。人口が増えて幾つかの自治会が分離独立したのは、それから7年後のことです。
② 自治会活動の苦労
 自治会の必要性が話題になったきっかけは、町の防犯灯のことでした。住宅はできましたが、家が建っただけでは街路灯はありません。夜になると道が暗くて歩くのにも不便でしたし、痴漢さわぎがあったりして不用心でした。警察関係の仕事をしていた鶴若氏を中心にして、自分達の手で防犯灯を設置する動きが始まりました。昭和35年頃の自治会管理の防犯灯の数は160灯ぐらいだったそうです。
 当時の防犯灯の役員は、連絡があると梯子を担いで電球を付け替えて歩きました。駅前から富士見が丘や東笹野台の方までと自治会の範囲が広いので大変だったそうです。その後、規則が変わって素人には防犯灯を勝手にいじることが出来ないようになり、業者にお願いするようになりました。その頃防犯灯台帳かきちんと作られていたと東京電力の係の方がびっくりしたということです。
 自治会の地図も今のようにそれを専門にする業者もなかったので、庶務担当の役員が自分の足で歩いて作りました。自治会の区域も広いので書類の配布も一苦労、風呂敷に包んで背負って届けに行きました。回覧は役員が謄写版で印刷しました。
 道路対策も大きな課題でした。側溝のふたを取り替えたり、道のくぼみを直したりするのも自分達で行いました。後には公道移管についての取組みをした所も出てきました。
 当初の自治会活動は、まさに自助努力の積み重ねでした。物はまだ十分に豊かではありませんでしたが、住居を整え、地域の環境整備にも目を向けて住民自身は意欲的に取り組んでいました。
 敬老会も、マリー幼稚園を借りて開催したりしました。65歳以上の高齢者を招待しましたが、はじめはその人数も3~5人ぐらいだったそうです。

(3) 新しい住宅団地の開発
 東笹野台や富士見が丘のあたりには、以前からぼつぼつと小規模な開発が行われていましたが、今の二丁目境友自治会の辺りの分譲地に家が建ち並んだのを契機として、笹野台の地域の開発は勢いづきました。昭和33年頃からいくつかの不動産業者が開発を手掛け、新しいまとまった宅地の造成がいくつか行われました。
 楽老峰、露木が丘、岸本などの分譲地です。各分譲地の入居者は36年ぐらいから急速に増えて、昭和40年頃には、どの分譲地も家が建ち並ぶようになりました。

① 楽老峰分譲地  相模鉄道は沿線の開発に力を入れ始め、駅や線路の改良を行いました。昭和33年には希望が丘~三ツ境間の複線化工事を終わり、駅舎やホームも新しくなり駅前の踏切も広くして、駅の南北の往来の便もよくなりました。その頃三ツ境郵便局が開設され、翌年には駅前に交番も設けられました。そして、相模鉄道が駅の北側に新しい分譲地の造成を始めて、楽老峰分譲地と名付けて売り出しました。本来の楽老峰とは少し離れていますが、三ツ境のイメージとして響きのよいこの地元の名所の名を用いたのでしょう。この団地は数年のうちに入居者が増えて、笹野台住宅地の中心的な存在となりました。[注 楽老峰については別項で説明します]
② 露木が丘分譲地  今の三丁目の辺りの南東に向けて広がる緩やかな斜面に露木が丘分譲地ができたのは楽老峰分譲地より少し遅れて35年頃からだったでしょうか。奥の方から家が増えていったようです。駅から少し離れていたためか、入居者の増え方はゆるやかでした。
③ 岸本分譲地  同じ頃、金が谷に岸本団地が作られ始めました。かなり広い団地でしたが、昭和40年ぐらいまでは家がまだあまり建っていませんでした。駅までの往復の時間がかかる場所で、途中の道路も悪かったし、勿論バスも通っていなかったので、住宅が建ち並ぶまでに時間がかかりました。同じ頃金が谷には『山城団地』も作られていました。

 その他、マリー幼稚園の北側には日本不動産が文教台高級住宅地と名付けて売り出すなど、ミニ開発も含めて宅地造成がいろいろと行われました。

(4) 地図や写真で見ると
 地域の商店などがスポンサーになって昭和36年に、次に掲げたような『境友自治会明細図』が作られて、各世帯に配布されました。以後、このような地図は毎年のように配られていました。
 それを見ると、二丁目の辺りはすっかり住家が並んでいるし、楽老峰分譲地や東笹野台の一部には住家が増えつつある様子が伺えますが、露木が丘や岸本はまだ家がまばらです。今の商店街の所を見ても、駅の近くに森金物店があるくらいで、金が谷道には民家もまだわずかでした。
 しかし、この頃からの笹野台地域の発展拡大はまことに目覚ましいものとなりました。
写真で当時の様子を見てみましょう。

 『横浜瀬谷区の歴史』(平成12年、瀬谷区役所発行)に、昭和33年頃の楽老住宅の航空写真が載っています。その右半分を見ると、笹野台の辺りが開け始めた頃の様子がわかります。市の分譲地、現在の境友自治会のあたりです。
 周辺をみるとまだ畑や林に囲まれています。野境道路もまだ住宅のところまでしか拡幅されていません。中原街道との交差点も林の中です。
 このようにして、開け始めた町が、やがて新しい町『笹野台』として発展することになるのです。次回は『笹野台』誕生の頃の様子を取り上げたいと思います。

ページの先頭へ